義経記  巻の七

 ①判官北国落ちの
事 ②大津次郎の事
 ③愛発(あらち)山の事 ④三の口の関通り給う事 ⑤平泉寺御見物の事  
 
⑥如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事 ⑦直江の津にて笈探されし事 ⑧亀割山にて御産の事   ⑨判官平泉へ御着の事
 
 
 判官北国落の事

 文治二年正月の末になると、太夫判官は、六条堀河に忍んで居る時もあり、また嵯峨の辺境に忍んで居るときもあったが、都では判官殿故に人々が大勢犠牲になった。義経は民の煩い(わずらい)となり、どこにいるかを聞き、どんな人なのか見ようと思うわれるようになっていた。こうなっては今は奥州へ下ろうと、吉野で別々になっていた侍を召された。十六人は一人も心変わりなく集まった。(絵・北国落ちを相談する義経主従。中尊寺・源義経公東下り絵巻)

 「奥州へ下ろうと思うがどの道を通ったら良いだろうか」と問いかけると、各々が言うには「東海道は名所も多く、東山道は悪路で急坂が多い。自然の災害が起こったときには避けて行く方法もありません。北陸道は越前の敦賀の津に下り、出羽国の方へ行くには船の便も良いでしょう」となって道を決めた。
 「そこで姿はどのようにしたらよろしかろう」と様々な意見が出たが、増尾七郎が言うには「お心安く下られるのであれば、御出家されてお下りになると良いでしょう」だった。

 義経 「最後はそうすることになるだろうが、南都の勧修坊に“千度出家せよ”と教訓されたのに、それに背いてきた。今、身の置き所がないからと、出家したと知られるのも恥ずかしい。この度はどうしても、変装して下りたい」
 片岡 「それならば山伏のお姿で下りなさいませ」
 義経 「さあ、山伏の姿はどうだろうか。都を出る日からして日吉山王、越前の国に気比の社、平泉寺、加賀国下白山、越中国に蘆峅、岩峅、越後国には国上、出羽国には羽黒山など、山社の多いところなので、山伏に行き会って、一乗菩提の峯、釈迦岳の有様、八大金剛童子のお姿、富士の峯、山伏の礼儀などを問われたときには、誰か見事に答えて通らないといけない」
 武蔵坊 「それほどの事は簡単ですよ。君は鞍馬にいらっしゃったから、山伏の事は大方ご存じでしょう。常陸坊は円城寺にいたので言うに及びません。弁慶は西塔にいたので、一乗菩薩の事も大方存じているので、答えに困る事などありません。山伏の勤めは、懺方阿弥陀経(ぜんぽうあみだきょう)などを、すんなりと読む事ですが、それも出来ないものが多いので、堅苦しくもありません。決心なさいませ」

 義経 「どこのの山伏かと問われたら、どこの山伏と答えるのだ」
 弁慶 「越後の国、直江の津は北陸道の中途なので、それよりこちら側では、羽黒山伏の熊野参り、下向の途中だと答えれば良い。それより向こうでは、熊野山伏が羽黒に参ると申すべきでしょう」

 義経 「羽黒の状況を知っている者はいるか。どの坊に誰がいるのかと問われたときにはどうする」
 弁慶 「西塔にいたとき、羽黒の者が、山の上の坊にいてが言うには、大黒堂の別当の坊に荒讃岐という法師がいて、弁慶はそっくりだと言っていました。そこで弁慶を荒讃岐と呼び、常陸坊を小先達として筑前坊とすれば良いのです」
 義経 「もとより法師だからお前たちは、法名を付けなくても問題なかろう。山伏の被る頭巾、衣、背負う笈などを纏うのだろうが、片岡、或いは伊勢の三郎、増尾などは似合わないと思うがどうなのだ」
 弁慶 「それならいっそ全員が法名を付ければよろしい」

 皆、思い思いの名を付けた。片岡は京の君、伊勢三郎は宣旨の君、熊井太郎は治部の君、と名乗った。そして、上野坊、上總坊、下野坊などと言う名を付けて呼び合った。判官殿は特に知る人もいるので、垢の付いた白い小袖二つに、矢筈の模様を付けた白地の帷子に、葛布で作った大口袴、千鳥を摺りだした柿色の衣に、古びた頭巾を目の辺りまで深くかぶって、戒名(法名)を大和坊と称した。そして、思い思いに出発した。

 弁慶は大先達なので、袖の短い白い衣、褐色の脚絆、武者草履を履いて袴を高く括って、新宮山伏が使う長頭巾を懸けていた。岩透と名付けた太刀を差し、ホラ貝を下げていた。武蔵坊は喜三太という者を荷物持ちにして、背負わせた笈の足に、猪の目を彫った鉞(まさかり)の八寸も或ものを結い添えていた。笈の天辺には四尺五寸の大太刀を真横にしていた。気合いも出で立ちも、立派な先達と見えた。総勢十六人、笈は十挺あった。一挺の笈には鈴、独鈷、花皿、火舎(かしゃ)、閼伽坏(あかつき)、金剛童子の本尊を入れていた。一挺の笈には織らない烏帽子十頭、直垂、大口などを入れた。残る八挺の笈には、皆鎧腹巻を入れていた。

 このようにして出で立ったのは正月の末、御吉日の二月二日だった。判官殿は奥州へ下ろうと侍共を呼んで「このように出発するけれど、なおも都に思いを置く事が多い。中でも一条今出川の辺りにいた人は、今も居るだろうか。連れて下ろうなどと言ったのに、知らせもせずに下れば、いかにも名残が残る。邪魔でなければ連れて下りたい」というと、片岡武蔵坊が申すには「お供すべき者は、皆ここにいます。今出河はどなたがいらっしゃるのか。北の方の御ことでしょう」と言うと、この頃の義経の立場では、さすがにそうだ、とも言いかねて、つくづくと考え込んでいたのだった。
(下・義経主従は山伏姿になった)

 弁慶 「事も、ことに依りますぞ。山伏の頭巾篠懸けに笈掛けて、女房を先に立てるようなら、いかにも尊い行者にもあるまじき事ですよ。また、敵に追いかけられた時には、女房を静かに歩かせて、先に立てるのは良いことではないでしょう」

 思えば愛おしい。この人は久我大臣殿の姫君、九つで父の大臣は亡くなられた。十三で母北の方も亡くなられた。その後は守り役の寿老権頭のほかは頼る人も居なかった。容顔は美しく、御情け深い方った。十六の御年までは、ささやかな生活だったが、どういう風の吹き回しか、この君に見初められてから、君より他にまた知る人も居なかった。

 惆悵(ちゅうちょう)の藤は松に離れて便りなし。三従の女は男に離れて力なし(なよなよとした藤は松の木以外に頼りとするものが無い。三従=嫁す前は父に、稼しては夫に、夫死せば子に従う=の女は男を離れてはなにもできない)

 また奥州へ下るといっても、情けも知らない東国の女と義経を娶せるのも気の毒で、義経の心の内を推し量ると、朧気な気持ちでいわれたのではあるまい。それならば、連れて下ったらと思うと、弁慶は「人の心は身分に区別はない。時が移れば人の心も変わる習い。それならば一緒に下るように一行に入らせて、事の成り行きをご覧になり、本当に奥州へ下向させなさるなら、お連れしてあげるべきでしょう」と申し上げると、判官は世にもl嬉しげに「それならば」と、柿の衣の上に薄衣を被り出て行かれた。武蔵も浄衣に衣被(きぬかずき)して、一条今出川の久我大臣の古御所へと向かった。

 荒れた屋敷特有の様子で、軒の下には露が溜まり、籬の梅は花が咲いていた。源氏物語の光源氏が常陸の宮の荒れた宿を訪ね、草むらの露を分けて歩いた古い話も思い出させた。判官を中門の廊下に潜ませ、弁慶は御妻戸の際に寄り

 「どなたかいらっしゃいますか」と問いかけた。
 「どちら様で…」との答えがあった。 
 「堀河の方から」
 北の方が妻戸を開けて見ると、弁慶がいた。日頃、弁慶の事は人づてに聞いてはいたが、目の前に現れたあまりの嬉しさに、北の方は御簾の際に寄って
 「あの方(義経)はどこにいらっしゃいますか」と問うと
 「堀河にいらっしゃいますが、明日は、陸奥へ下る、と申せ、と仰せられました。『日頃のお約束ではどういう状況でも連れて参る、と申したが、道々を塞がれて、人を連れて行き、憂き目を見させる事はいたわしく思うので、義経が先に下り、もし命永らえたなら、春の頃には必ず、必ず迎えに人を出します。それまでは御心をゆったりと保ち、お待ち下さい、と話せ』と仰せられました」と伝えた。

 北の方「この度でさえ連れて下られぬひとが、何故に迎えの人を送るでしょう。あわれ下り着く前に、老人、年少者を問わず、命は分からないものです。その間に亡くなるような事なども、とても逃れられない運命なので、どうして連れて下らなかったのだろうと後悔しても、その甲斐はありません。御志しがおありだった頃は、四国、西国の波の上までも連れて行きましたよ。そう言うことで、いつしか変わる心が恨めしいです。大物浦とかより、都へ帰されたその後は、一時は途絶えた文のやりとりも、また良いときが来ると慰められ、心弱くもそう思いましたが、二度も辛い思いをする言葉を頼りにするとは情けなく、悲しい。言うにつけてもなぜ連れて行かないのか、と思うけれど、知られずに自分が死んだら、執念を後生まで残すのは、罪深いと聞いています。過ぎた夏の頃から、心乱れて苦しくなっているので、子を妊ったとか人が言いますが、月日に添って、昨夜も苦しくなりましたので、その兆候は隠れない事でしょう。六波羅へ聞こえて、兵衛佐殿は情けなきひとと聞くので、捕まえて鎌倉へ下されるでしょう。北白川の静は歌を歌い、舞いも舞えるので、一度の咎は逃れました。我々はそれには似ないでしょう。ただ、今の憂き名を流すことが悲しい。何と言っても、人の心の強さなので、私にはその力はありません」と語り、涙が堰を切ったように流れた。

 武蔵坊も涙に咽んだ。燈火の明かりで常に住み慣れている障子の引き手の元を見れば、お手跡と見える歌があった。

 
♪つらからは我もこころの変われかしなど憂き人の恋しかるらん (辛ければ私の心も変われば良い なぜ憂き人が恋しいのだろう)

 と書かれているのを弁慶は見て、いまだに義経の事を忘れておられないのが気の毒で、急ぎ判官にこの事を申し上げると、判官はそれならばと、「気の短い御恨みでしょう。義経も御迎えに参ろう」と、つと中へ入ると、北の方は夢心地で、問いかけるのも辛い涙が先で、せき止められないほど流れ出た。
 判官「義経の今の姿をご覧になれば、日頃のお志も興ざめる思いでしょう。とんでもない姿ですから」
 北の方「大方、聞いていたお姿と、様変わりしておいでです」
 判官「これをご覧なさい」と上の衣を押し除けると、柿の衣に小袴、頭巾を着けていた。
  北の方は見慣れない姿をみて、疎ければ恐ろしくも思うだろうが、すぐに言った。
 「私をどのような出で立ちにして連れて行くのですか」と問うと
 武蔵坊「山伏と一緒なので、子供のように姿を変えて参りましょう。容顔も化粧されると、児らしくなり、見苦しくはありません。お歳のほどもほどよく見えますので、つくろいますが、御振る舞いが大事です。北陸道を申しますのは、山伏が多いところで「この花を小人へあげましょう」と言われたときには、男の言葉を覚えておき、折り目正しく、姿を男のように振る舞って下さい。これまでのように、しなしなとした恥ずかしそうな気持ちや、振る舞いでは、小人として見られることは決してありません」

  北の方「あの方のおかげで、習ったことの無い振る舞いまでして、下ろうと思うのです。もう夜も更けました。早く早く」と仰れば、弁慶がお世話を焼くことになった。岩透という刀を抜いて、淸水を流した御髪、丈に余るほどのものを、情けなくもフッと切る。末を細く刈り、高く結い上げて、薄化粧に御眉を細く作り、ご装束はつややかな色に華やかな色の衣を重ね、裏山吹一重ね、唐綾りの小袖、播磨浅黄の帷子を上に着せる。白い大口袴、いろいろな色を混ぜて織った直垂を着せ、綾の脚絆に草鞋を履き、袴を高く括り、新しい笠を被った。赤木の柄の刀に濃く彩色した扇ぎを差し添えて、吹きはしないが漢竹の横笛を持った。紺地に錦の経袋には法華経の五の巻を入れて懸けた。我が身一つでも苦しいだろうに、万のものを取り付けたので、しどけなく見えた。
(北の方=中央=の切り取った髪が置かれている。義経記・日本古典文学大系)

 これこそ漢の元帝に仕えた官女、王昭君が胡国の夷に連れられ、下って行った心の内を思い知らせる。このような出で立ちで、四間の客と面会する部屋に灯火を沢山立てて、判官は武蔵坊を傍らに、北の方を引き立て、御手を取りて、あちこちを歩かせ「義経は山伏に似る。人は兒子に似るぞ」と仰せられた。弁慶が言うには「君は鞍馬においでだったから、山伏にも慣れておいでだので言うまでもありません。北の方は習ったことなど無いでしょうが、お姿は少しも兒子に違いません。何ごとも前世の業という事でしょう」と言う側から、哀れを催す涙がしきりにこぼれたが、気づかない振りをしていた。

 そして二月二日のまだ夜も深い時に、今出川を出ようとされた。西の妻戸に人の音がする。何者かとご覧になると、北の方の付き添い、十郎権頭兼房、、白い直垂に褐の袴をはき、白髪交じりの髻を乱し「年寄りではあるが、是非供お供いたしたい」とやって来たのだ。
 北の方「妻子を誰に預けたのですか」と問えば「相伝のご主人を妻子にかえるべきでしょうか」と言って涙に咽んだ。六十三のまま、いい歳の山伏となった。

 兼房、涙を抑えて言うには「君は清和天皇の末、北の方は久我殿の姫君です。ただ仮初めに花紅葉のお遊び、御もう出であろうとも、輿車など召されるべきなのに、遙々、東の道に徒裸足(かちはだし)で出で立ちされることは、目も当てられず悲しいです」と、涙を流すと、残りの山伏共も「理なり。真に世には神も仏もいらっしゃらないのか」と、袖を濡らした。

 さて、判官は北の方の手を取り、組んで歩かせようとしたけれど、まだ経験したことが無いから、ただ一所にとどまったままだたった。面白い事を話し、慰めながら歩を進めた。まだ深い夜に今出川を出たけれど、鶏もしどろもどろに鳴いて、寺々の鐘、はや打ち鳴らすほどに明けたころ、漸く粟田口までたどり着いた。武蔵坊は片岡に言った。
 「どうにもならん。北の方の足を早くするよう、片岡、伝えろ」

 片岡は御前へ参り、申し上げた。
 「このように旅をされると、道がはかどはかどるとは思えません。君は心静かにお下りなさいませ。我らはお先に下り、秀衡に御所を作らせて、お迎えに参ります」と言って先に立つと、判官は仰せられた。
 「どんなに北の方が名残惜しく思っても、此の人達に棄てられてはかなわない。都が遠くならないうちに、兼房、お供して帰れ」と、棄てておいて進むと、さしも忍んでいた北の方も、声を立てて仰せられた。
 「今より後は、道が遠くても悲しみません。誰かに預けておいて、どこへでも行けと捨て給うのですね」と声を立てて、悲しめば武蔵坊が戻って来て、連れて歩いた(北の方は義経記では徒歩だが、中尊寺絵巻=上=では、馬に乗っている)

 
粟田口を過ぎて松坂近くなれば、春の空の曙に霞に間違いそうな雁が、微かに鳴いて通るのを聞き、判官はこのように綴った。

 
♪み越路の八重の白雲かき分けて羨ましくも帰るかりがね (北陸道の空に幾十にも重なった白雲をかき分けて故郷へ帰る雁が羨ましい)

 北の方もこの王に続けられた。

 
♪春をだに見捨てて帰るかりがねのなにの情けに音をば鳴くらん (春が来るのにそれさえ見捨てて帰る雁はなにが悲しくて鳴くのでしょう)

 こうして過ぎて行くと、逢坂の琵琶の名手、蝉丸の住んでいる藁屋の家をみると、垣根に忍ぶ混じりのわすれな草が混じり、荒れた家の事なので、月の光だけは昔と変わらないと、思い知らされて寂しさが迫る。軒の忍を取ってみると、北の方、都で見たよりも忍ぶ哀れがさらに増し、とても悲しく思われてこのように続けられた。

 
♪住み馴れし都を出でて忍ぶ草置く白露は涙なりけり (住み馴れた都をでて 人目を忍んで行くと、忍ぶ草に白露が載っていた。この白露は私の涙です)

 かくして大津の浦も近くなる。春の長い日を歩きに歩こうとしたけれど、関寺の鐘は今日も暮れると打ち鳴らし、民が宿を取る頃になり、大津の浦にかかった。
 
 

   ②
大津次郎の事

 
ここで面倒な事が出て来た。
 『天に口なし、人をもって言わせよ(いわしむ)』(天はみずからかたることをしない。天意は人の口を通じて告げられる)と、誰が披露しようとはしなかったが、判官が山伏となって、その勢十余人で都を出たと知られると、大津の領主、山科左衞門、円城寺の法師に呼びかけ、城郭を構えて待ち受けた。しかし、判官は大津の渚にある大きな家に立ち寄った。湖畔の宿場として塩津、海津、山田、八橋、粟津、松本などの宿場でも知られる、商人でもあり、回船業でもある大津次郎という者の家だった。
(琵琶湖を船で渡る=中尊寺絵巻)

 弁慶は宿を借りるのに「羽黒山伏が熊野に年籠(十二月の晦日から神社仏閣に参って忌み籠もりする)して、下るところです。宿をお願いします」と申し入れた。昔から宿場に伝わる習慣なので、間違いなく宿を提供した。夜が更けると懺法阿弥陀経を声を揃えて読んだ。これが勤めの始まりとなった。大津二郎は左衞門に召されて城に行っていた。大津二郎の妻は、物陰から一行を見て、なんと美しい山伏の兒(ちご)でしょう。熊野詣での道者と言うけれど、衣装の美しさは、何と言ってもただの人ではない。判官殿が山伏となって下ったと言われるので、判官だったら城へ伝えなくても、自分の考えで討って縛り上げ、鎌倉殿にお見せし、勲功を与えられたいもの、と思った。

 城へ使いを出し、男(大津)を呼び寄せえ、一間へ招き入れて言った。
 「良い機会だ。今夜にも我々、判官殿に宿を御貸ししたので、どうしましょうか。あなたの親類や私の兄弟を集めて絡め捕りましょう」という。男は「壁に耳。石に口、と言う事もある」とたしなめた。そして続けた。
 「判官殿であったとて、なにか問題か。搦め取ったとしても、判官殿ではなく、修験道の神仏、金剛童子かも知れないぞ。それに、判官殿だったとしても、鎌倉殿の御弟であられるので、畏れ多い。自分たちが攻め討とうとしても、たやすいことではない。うるさい、うるさい」

 女はこれを聞いて「この男は自分の妻子に強く当たるしか能がない。女の言う事は上の人の耳に入らないことが多いので、今から城へ行って話すわ」と、小袖をとって被り着て、すぐに走り出ていった。大津次郎はこれを見て、奴を放して置くとろくな事はない、と思ったのだろう。門を出たところで追いついた。
 「お前はいつもこうだ。風に靡く刈萱、男に従う女、と言うではないか」と言って引き倒し、気が済むまで折檻した。彼女は極めて性根の曲がった女なので、大路に倒れて喚いた。
 「大津二郎は極めつきの僻みっぽい男で、判官に味方する者だぞ」
 地元の者達はこれを聞いて言うには
 「大津二郎の女は酔って狂っては、男に殴られると喚く。言う事をを信じると、判官に味方するなどと言われた、多くの法師(山伏)の嘆きにもなろう。ほったらかしにして、殴らせておけ」と、取り合わなかったので、殴られてふうふう行きをつき、倒れ伏していた。

 大津二郎は直垂を着て、御前に参り、悄然として
 「これほど悔しいことはありません。女がものに狂いました。お聞き届け下さい。なんとでもいってください。今夜はここで明かし、明日の御難をなんとしても逃れられるように致します。ここに山科左衞門という人が、城郭を構えて判官殿を待っています。急ぎ出発されるのがよろしいです。ここに船を一艘持っています。お使いくださって、客僧達の中に船の心得があれば、急ぎ船出してください」と言った。

 弁慶が言った。
 「この身に誤りはないけれど、そんな風にこにかかずらっていて、留置でもされては日数も延びましょう。それならばおいとまを申して」と漕ぎ出すと
 「船を海津の浦に乗り捨てて、すぐに愛發(あらち)の山を越えて、越前の国へお入りなさい」と言った。判官を送り出してから、大津二郎も港へ行き、船を仕立てて後を追った。

 そうして大津二郎は山科左衞門の元に走りって言うには
 「海津の浦で弟が災難に遭い、傷付いたと聞いて、お暇を願います。別の事だったならすぐに戻って参ります」と言うと
 「それほどの大怪我怪我なら、早く、早く」と申された。大津二郎、家に帰って、太刀を取って脇に挟み、実戦用の矢を背負い、弓を張り、船に躍り込んで“お供します”と、大津の浦を押し出した。
 瀬田の川風激しくて船に帆を掛けた。

 大津二郎「こちらは粟津大王が建てられ石の塔山、lここに見えるのは唐崎の松、あれは比叡山」と説明する。山王の御宝殿を顧みると、その先は竹生島。風に任せて行くと夜半には西近江、どことも分からない浦を過ぎて行くと、磯波が聞こえ、ここはどこだ、と問えば「近江国堅田の浦」と答えた。北の方はこれを聞かれ、次のように続けた。

 ♪しぎが臥すいさはの水の積もりいて堅田の波の打つぞやさしき (鴫が休む岩間からわき出る水が集まって堅田の浦へ優しく打ち寄せている)

 白鬚の明神を遠くから拝み、三河の入道寂照が

 ♪鶉鳴く真野の入り江の浦風に尾花波夜秋の夕暮れ (鶉が鳴く真野の入り江から葺いてくる浦風が湖上に小波を立て 一面にススキのように見える秋の夕暮れです)

 こう読んだ昔の(金葉集)心をを今こそ思い知らされた。
 今津の浦を漕ぎすぎて、海津の浦に着いた。十余人の人々を上陸させ、大津二郎は暇を告げた。その時不思議な事が起こった。南から北へ吹いていた風が、今、急に北から南へと吹く。
 判官「彼は同じ身分の低い者の中でも情けのあるものだな。褒美をやろう」
 武蔵坊を召して「なにも礼をせずに下れば、後に聞いて残念に思うだろう。礼の品を取らせましょう」
 弁慶は大津二郎を招き「判官殿からのお礼だ。判官殿が下って行かれるのだが、途中で事件が起こったりしたら、もう会うこともないだろうから、その時には子孫のためにでも役立てよ」と、笈の中から萌葱色のの腹巻きに刀の鍔を金銀で飾った小覆輪の太刀を添えて、お礼として手渡した。
 大津二郎はこれを戴いて「いつまでもお供したく思っていますが、君のために、今はは良くないでしょうから、お暇し、どこか君が行かれたところを聞いて、そこへ見参いたします」と帰って行った。下郎だけれど情け深い男だと思った。

 大津二郎が家にかえると、女は一昨日の事を腹に据えかねて、いまだに臥せていた。大津二郎は「やー、御前、御前」と言ったけれど、返事もしない。
 「なんと我が女はつまらないことを思っているものだ。山伏を泊めて判官殿と言って、既に憂き目を見るところだったな。船に乗せて海津の浦まで送り、船賃などを取り立てると、無法なことを言うので、憎くなってひったくってきたものよ」と、太刀と腹巻きを取り出して、ガバッと置けば、寝乱れた髪の間から、恐ろしげな目をパチパチさせ、さすがに今は気を取り直したようすで「それも私のおかげだよ」と、大きく笑う顔を見ると、あまりにも疎ましく思えた。男が言っても、女の身ではどうにか制すべきなのに、思いつくことが恐ろしい。


  
愛發山(あらちやま)の事 

 判官は海津の浦を発って、近江国と越前の境となる愛發山へかかった。一昨日都を出て、大津の浦に着き、昨日は船に乗ったが、(北の方は)船酔いとなり歩ける様子ではなかった。愛發山は人跡絶えて古木立は枯れ、岩石峨々とした悪路なので、岩角は切り立って、木の根は枕を並べたように露出している。いつ踏み外されたのか、左右の足から流れる血は、紅をそそぐようで、愛發山の岩角を染め続けた。
 ちょっとしたこと、山伏の柿色の衣さえ恐ろしがられた。その姿を見た山伏達は、あまりのいたわしさに、時々、代わる代わるに背負った。

 こうして山深く分け入ると、紐既に暮れてしまった。道の辺二町ほど分け入って、大木の下に敷き皮を敷き、笈を並べて北の方を休ませる。
 北の方「恐ろしい山。この山を何というのですか」
 判官「この山は昔、あらしいの山、と申したが、今は愛發山と言う」
 北の方「面白いですね。昔は、あらしいの山、と言ったのを、どうして愛發山と名付けたのですか」
 判官「この山はあまりに岩石が多いので、東から都へ上り、京から東へ下る者が、足を踏み外して血を流すので、あら血山、と言うのです」

 これを聞いた武蔵坊。
 「なんとまた、これほど根拠のないことを仰るのですか。人の足から血を踏み垂らせるからと、あら血の山、というなら、日本国に岩石のない山、あら血山出ない山はありますまい。この山の子細は弁慶が良く知っています」
 判官「それほど良く知っていいるなら、あまり知らない義経に言わせるよりも、なぜ早く言わないのだ」
 弁慶「言おうとしたところを、君が遮って話されたのです。どうして弁慶が言えますか。この山をあら血、と言うことは、加賀国の下白山に女神の竜宮の宮がいらっしゃいましたが、昔の滋賀の都御唐崎明神に見初められ、歳を経るうちに、懐妊され産み月も近くなったので、同じ出産するなら我が国で誕生させるのが良いと、加賀へ下るときに、この山の頂上でにわかにお腹が痛み始めたのです。明神は“御産が近いぞ”と、御腰を抱かれると、そのまま御産となったのです。その時の御産で出産に伴う“あら血”を零されたので、あら血山というのです。それで、あらしいの山、あら血の山のいわれとされているのです」
 判官「義経もその様に知ったよ」と笑った。




  ④
三つの口の関通り給ふ事

   夜も明ける頃になると、愛發山を出て越前の国へ入った。愛發山の北、緩やかな尾根に若狭へ通う道があった。能美山へ行く道もあった。そこを三の口と呼んだ。越前の国の住人敦賀の兵衛、加賀国の住人井上左衞門の両人は、命を受けて愛發山の関に番小屋を作り、夜三百人、昼三百人の関守を駐在させ、関屋の前に乱杭を打ち、色が白く、上の歯が出ている者は道を行かせず、判官殿ではないかと搦め取って、厳しく糾問して声を荒げた。道を行く人を判官殿と見るようでは「この山伏達も難を逃れられまい」と話しあった。

 聞くにつけても、行く先は物憂く思われるところに、越前の方から浅黄の直垂を着た男が、書状を包み紙で覆った立て文を持って忙しそうにやって来た。判官はこれを見て「彼は子細あって通る奴だ」と言い、笠で顔を隠して通そうとしたところ、十余人の中に分け入り判官の前に跪き「これはいかがしたことですか。君はどちらへお下りになりますか」と言った。
 片岡は「君とは誰のことだ。この中にお前に君と呼ばれる者はいないぞ」という。
 武蔵坊はこれを聞いて「京の君の事か、宣旨の君の事か」というと、、その男は「どうしてそう言うことを言うのですか。君を見知って参ったので、そう申したまで。私は越後国の住人上田左衞門という人に仕えていましたが、平家追討の時もお供仕っていますので、見知っています。壇ノ浦の合戦の時、越前と能登、加賀三カ国の人数の武具を記録した武蔵坊と見るのは間違いか」という。

 これを聞くと口達者な弁慶も力なく伏し目になった。
 「仕方ない事です。この道の先では君を待ち伏せしています。今、ここからお戻りください。この山の峠から東に向かって能美越に罹り、燧ヶ城へ出て、越前国国府にかかって、平泉寺を拝み、熊坂へ出て、菅生の宮を遠く見て、金津の上野へ出て、篠原、安宅の渡りを越え、根上の松を眺め、白山の権現を遠く礼拝し、加賀国宮越へでて、大野の渡りを過ぎ、阿尾が崎の端を越えて、倶利伽羅山を経て、黒坂口の麓を経て、五位庄にかかり、六動寺を渡り、奈呉の林を眺めて、岩瀨の渡、四十八箇瀬を越え、宮崎郡の市振にかかる。寒原中石(親不知付近)の難所を経て、能の山を遠くに拝み、越後国国府について、直江津から船に乗り、米山の沖を経て、三十三里の刈谷浜、勝見、しらさきを漕ぎすぎて、寺泊に船を着け国上、弥彦を拝んで九十九里の浜にかかり、乗足、蒲原、八十里の浜、瀬波、岩船というところに着き、須戸、鵜戸路を抜けるのは、雪解け水が増水していて無理でしょう。
 岩ヶ崎にかかり、長坂、念珠の関、大泉庄、大梵字を通り、羽黒権現を伏し拝み、清河というところに着いて、杉の岡船の乗り、(最上川中流の)合川津に着き、そこから道は二つあります。
 最上郡を経て、伊奈の関を越え、宮城野の原、躑躅の岡、千賀の塩浜、松島と申す名所、名所を見て三日、寄り道です。それより後、亀割山を越えて、昔、出羽の郡司の娘、小野小町という者の住んでいた玉造、室の里というところ、また、小町が関寺にいる時、業平の中将、東へ下りましたが、妹の姉歯の許へ文を書いて言付けをして、中将は姉歯を訪ねましたが、既に亡くなって久しいと聞き、「姉歯の痕跡はないか」と聞かれると、ある人が「墓に植えた松が、姉歯の松と言われています」と答えると、中将は姉歯の墓に行き、松の下に文を埋めて歌を読まれました。

 ♪栗原や姉歯の松の人ならば都の土産にいざと言はましものを (栗原の姉歯の松が人ならば、都への土産に一緒に行こうと言うものを)

 こう詠まれた名木をご覧になり、松山を一つ越えれば、秀衡の館は近いです。曲げてこの道をお通りください」と言った。

 判官はこれを聞いて「これはただ者ではない.八幡のお計らいと思うぞ。さ、この道を選んでいこう」と仰せられた。しかし、弁慶は「どうぞこの道をお選びください。わざと酷い目をご覧になるつもりでしたら、どうぞそうなさいませ。奴が君を見知っているのは、疑いもなく作り事をして、君を謀り参らせようとしていると思いますよ。先に行かせても、後に付かせても、良いことはないでしょう」と言った。
 義経 「そうか。それなら良いように計らえ」

 武蔵坊は立ち上がってその男に「どの山をどの谷間を抜けていくのだ」と、問いかけるように話し、左の腕を伸ばして首を掴み、逆さまにして取り臥せ、胸を踏みつけて刀を抜き、胸元に突きつけ「おのれ、有りの儘を言え」と責めた。男が震えながら答えるには「本当は上田左衞門に仕える者ですが、恨む事があり、加賀国井上左衞門に仕えています。“君を見知っております”と申し上げれば“申し上げた道に向かわせ、こちらの言うなりにさせようとしている”と仰せられる。どうして私が君をおろそかになどと考えましょうか」と言うと、「それこそ、お前の狙いよ」と、胸の真ん中を二度、刺し貫き、首を掻き離し、行きの中に踏み込んで、何ごともなかったように歩き始めた。井上の下人、平八郎という男だった。身分の低い者があまりにも分かったような口を利くと、却って身を滅ぼす事となる典型だった。

 さて、十余人の人達はとにかく仕方がないと半ばふてくされ、関屋をさして歩いた。十町ほどに近づいた時に、二手に分かれた。判官殿のお供には武蔵坊、片岡、伊勢三郎、常陸坊を始め七人。もう一組は北の方のお供として十郎権頭、根尾、熊井、亀井、駿河、喜三太がお供して、間を五町ほどあけた。先の組が木戸口へ向かっていくと、関守は「これは!」と言うまでもなく百人ほどが七人を取り込め「これこそ判官だぞ」というと、繋ぎ止められた者共は「行方も知らぬわれらに、こんな憂き目を見せ給う。これこそ判官のせいだ」と喚くのは、身の毛もよだつほどだった。

 判官が進み出て言うには「そもそも羽黒山伏が、なにをしたからこれほどの騒動になったんだ」
 関役人「どうして羽黒山伏の者か。九郎判官でしょう」
 判官「この関屋の大将軍はどなただ」
 役人「当国の住人敦賀、加賀国の井上左衞門殿と言うお人だ.兵衛は今朝下り、井上は金津にいます」
 判官「主もいないところで羽黒山伏に手をかけて、主に災いを及ぼすなよ。この笈の中に羽黒の権現の御正体、観音がおわします。この関屋を祭壇と定めて,しめ縄を引き、榊を振って祈りなさい」と仰せられた。
(写真下・羽黒山の五重塔)

 関守共 「実際に判官殿でないのなら、その説明をすべきなのに、主人に災いをかけないようにしないのはなぜだ」
 弁慶 「形の通り先達を務める上は、山法師のいうことをお咎めされてはどうにもならない。やあ、大和坊、そこをどきなさい」
 そう言われた大和坊は関屋の縁に下がった。この人こそ判官なのだ。弁慶が言うには「この人物は羽黒山の讃岐坊と言う山伏だが、熊野に参り大晦日から正月にかけて山ごもりし、下ってきたところです。九漁判官殿とかを、美濃国とか、尾張国とかから、捕らえて都へ上るとか、下るとか、聞いているが,羽黒山伏が判官と言われる筋はありませんよ」と言ったが、関守達は何と説明しようとも、弓に矢をつがえ、太刀、長刀の鞘を外していた。

 後の人達も七人連れて来た。関守達は大勢の中に取り込めて「射殺せ」など御t喚くので、北の方は消え入るような気持ちとなった。ある関守が言うには「ちょっと鎮まれ。判官ではない山伏を殺しでもしたら,後が大変だ。昔から今まで、羽黒山伏の関越えの賃料はない。判官ならそう言うことを知らずに関手(関越えの金)を払って通ろうと急ぐだろう。本当の山伏なら、関手を払う事はない。これで判断したらどうだ」と言う。
 いかにも利口ぶったような男が進み出て言うには「所詮、山伏と言っても五人、三人ならともかく、十五、六人のもいるのに、関手を取らない訳にはいかない。関手を払って通りなさい。鎌倉殿からの文書にも階層、身分にかかわらず、関手を取って兵糧米にせよ、とある。関手を戴きましょう」と言った。

 弁慶は言う。
 「今までとは違ったことを言いますなー。いつから羽黒山伏から関手を取る法ができたのか。例のないこと二は随えません」という。関守共はこれを聞いて「判官ではない」と言う者がいた。或いは「判官だけれど、飛び抜けて優れた人なので,武蔵坊などと云う者が、いろいろと話しているのだろう」などと言う。またあるものがいうには「そうならば、関東に人を行かせ、通して良いかどうかを聞かせ、その返事があるまでここに留めておけば良い」などと云う。弁慶は「これは金剛童子のお計らいです。関東へのお使いの行き来する間、関屋の兵糧米で食べさせて貰い、御祈祷をしながら、ゆっくりと安心してしばらく休ませてくださるか」と少しも慌てず十挺の笈を関屋の中に持ち込み、十余人の人々が関屋の中に入り、澄まして座り込んだ。

 なおも関守は怪しんでいたが、弁慶は関守に向かって、問われもしないのに独り言を聞こえるように言った。
 「この少人(武士の児で寺院に預けて教育した)は出羽国の酒田の次郎を言う人の君達で、羽黒山では金王という少人だ。熊野に年籠して、都で何日かを過ごし、北陸道の雪が消えるのを待って、山家、山家をたどりながら、粟の食物などを戴き、僧の食事をまかないつつ下っていこうとしたのに、あまりにも少人が故郷の事ばかり話されるので、いまだ雪も消えないけれど、帰ることを思い立って嘆くので、出発してきたのだがここでしばらく滞在するのは嬉しい事だ」等と語り、草鞋を脱ぎ、足を洗って、思い思いに寝転がったり、座ったりなど、我が物顔に振る舞うと、関守共は「これは判官ではないだろう。すぐに通してしまえ」と、関の戸を開いた。

 しかし、一行は急がない様子で、一度に全員が出るようなことはなく、一人、二人づつ静かに休み休み出て行った。常陸坊は人より先に出て、後を振り返ると、判官と武蔵坊はまだ関の縁にいた。
 弁慶が言うには「関手を支払わなくて良いとしたうえ、判官ではないという仰せを蒙りました。いろいろと喜び入りますが、この二、三日、少人はものを食べていませんのが、心苦しいのです。関屋の兵糧米を少し戴いて,少人に持たせ通りたいのです。一方は御祈祷、もう一方は恩情としてお願いします」と言った。関守共は「何という山伏だ。判官かと聞くと、口を極めて言いつくろう。その上、施しを乞うとは」。利口ぶった関守の一人は「御祈祷のお礼だ。望みのものを持たせろ」というと、唐櫃の蓋に白米を一杯に入れて、与えた。弁慶はこれを受け取って「大和坊、これを持て」というと傍らから前に出て、受け取ったのだった。
(絵・右)

 弁慶は敷居の上に立って、腰に着けていたホラ貝を持ち、大きく吹き鳴らし、頸に掛けた数珠を押しもみ、いかにも尊そうに祈った。
 「日本第一大霊権現、熊野は三所権現、大嶺八大金剛童子、葛城は十万の満山の御法神、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷、祇園、住吉、賀茂、春日大明神、比叡山王七社の宮、願わくは判官この道にかけ参らせて、愛發の関守の手にかけて留めさせ、名を後代に挙げて勲功が大きければ,羽黒の讃岐坊が建徳のほどを見せ給え」と祈った。関守共は頼もしげに思った。
 心中は「八幡大菩薩、願わくは目に見えない送り御法、迎え御法で、奥州まで間違いなく旅が出来ますように」と祈った心こそ、悲壮なものがあった。

 夢の中の道を歩む心地で、愛發の関を通った。その日は敦賀の港へとくだり、気比神社で一夜を明かし、出羽へ下る船を尋ねたが、まだ二月の初めなので、風が激しく行き交う船もなかった。夜を明かし木芽峠を越えて、何日かを旅すると越前の国、国府に着いた。そこで三日間、逗留した。

 
  平泉寺御見物の事


 「寄り道になるが、広く知られている平泉寺(叡山の末寺で、白山神社の境内にあった)を参拝しよう」と仰せがあった。各々はあまり気は進まなかったが、仰せとならばと平泉寺屁向かった。その日は雨が降り、風も吹いて、周囲も陰鬱な雰囲気で、夢の中の道を歩くような気持ちで、平泉寺の観音堂へ着いた。白山神社の大衆はこれを知って寺の長へ知らせた。長吏は主立った関係者を集め、詮議した。
 「当時関東は山伏禁制となっている。この山伏はただの人とも思えない。判官は大津愛發山を通られたと聞く。近くで見ればどう見てもこの山伏は判官だと思います」となった。

 尤もな事だと大衆は出掛けた。平泉寺というのは山門の末寺。従って衆徒の規則も延暦寺に劣らず、大衆二百人、事務方も百人、武装して夜半に観音堂に押しかけた。十余人は東の廊下、判官と北の方は西の廊下にいた。弁慶がやって来て「今こそと思います。普通のことではありません。どうされますか。しかし、どうにもならなくなるまでは、弁慶がいろいろと話して見ましょう。それでも敵わない時には太刀を抜き“憎き奴ども”などと云って、飛んで降ります。その時は御自害してください」と言って出て行った。

 大衆と問答をしている時に「憎き奴ども」の声がするかと、耳をそばだてていた。心細くもあった。衆徒が言うには
 「そもそも、お前らは何処の山伏なのだ。出任せでは済まないぞ」という。
 弁慶 「出羽国羽黒山の山伏です」
 衆徒 「羽黒で何という名だ」
 弁慶 「大黒堂の別当で讃岐の阿闍梨と言うものです」
 衆徒 「そこの少人は誰なのだ」
 弁慶 「酒田の次郎と申す人の御子、金王殿といって、羽黒山では知らない人のいない少人です」
 
 これを聞いた衆徒は「この者は判官ではない人だ。判官であるならば、どうしてこれほど羽黒のことを知っていようか。金王というのは、羽黒では評判の高い児というぞ」
 長吏はこれを聞いて、座敷に居直り、武蔵坊を呼んで「先達の坊に言う事がある」というと、弁慶も長吏に膝が付くほどに居座った。
 長吏 「少人のことは承った。心も言葉も及びませんでした。学問の素質はいかがですか」
 弁慶 「学問では羽黒に並ぶ人はいません。言い過ぎかも知れませんが、容姿では比叡山、三井寺にもこれほどの人はいません。学問ばかりではなく、横笛でも日本一というべきでしょう」

 長吏の弟子の和泉美作という法師は、極めて思慮深い、平泉一のくせ者。長吏に言うには「女ならば琵琶を弾くことは常のこと。だから女と疑う所へ、笛の上手と言う事は怪しい。すぐに兒子に笛を吹かせて見せましょう」という。長吏もその通りと思い「そう言うことならば音に聞こえた笛を聞いて、世の末の物語として伝えよう」と言った。
 弁慶は頃を聞いて「簡単なこと」と返事はしたけれど、両岸が真っ暗になるほどだったのを覚えている。
 こう言う事態はあるべきことではないが、それを小人に申し上げようと西の廊下に行き「こう言うことになってしまいました。有りもしないことを申しているので、お笛を吹かれ、その様子を知りたいと申しております。如何いたしましょうか」と申し上げた。
 「そういうことなら吹かなくても出てあげなさい」と判官。
 「ああ、なんと辛いことでしょう」と絹を被って伏せて仕舞われた。

 衆徒は盛んにお出ましが遅いと騒ぐのを、弁慶が「ただいま、ただいま」と答えるばかり。和泉という法師が言うには「さすがに我が朝は熊野、羽黒は大寺院であるあるぞ。それに違うことなく名誉ある稚児を平泉寺に呼び出し,散々に嘲り笑ったと知られたとき,この寺の恥にはなるまいか。精進を奉りもてなすように、そのついでに吹かせるのなら問題はあるまい」と言った。

 「もっともだその通り」の声が有り、長吏野ところに念一、弥陀王と称する稚児がいた。飾り立てて連れ出したが、若大衆の肩や首に乗って野登場だった。賞めんんぉ座敷には長吏,東な政所、西は山伏、温存を後ろに,仏壇の際に南に向けて小人の座敷を仕立てた。二人の稚児が座敷ににすわると弁慶がやってきて「お出でなさいまし」と北の方を促す。北の方はただ闇に迷ったような気持ちで
お出になった。

 昨日の雨に萎れたように見える模様を浮き立たせた直垂に、下は萌葱色を召した姿は、いっそうの美しさがあった。髪を立派に結い、赤木の柄の刀に濃い色合いの扇を差し添え、御手に横笛を持って野お出ましだった。お供には十郎権頭、片岡、伊勢三郎、判官殿はちかくにお出でだった。もし、万一野ことがあれば、人出に不足はないと思えた。正面に進まれたときに、投下は高く掲げられた。北の方は扇を取り直し、衣紋青掻き繕い、座敷にお座りになった。ここまではぎこちないところも見当たらなかった。武蔵坊は一安心した。とにかく仕損ずるほどならば,差し違えて、どうにでもなれと思っていたので、長吏と膝をつき合わせていた。

 そこで弁慶が長吏に語ったのは次のようなものだ。
 「言うまでもないことだが、笛では日本一です。ただし、子細が一つあります。この小人、羽黒にいたとき,明け暮れ笛に心を入れ込み、学問の心は空々しかったため、去年の八月に羽黒を出るとき、師の御坊、今度の道中上下の間、笛を吹かないと誓約しなさいと、権現の午前でカネを打たせ奉りました。そういうわけで精進の御笛をご免候願います。ここに山と棒と言う山伏がいますが、笛は上手です。常に精進もこの山伏に習ったのです。御代官にはこの男に笛を吹かせましょう」

 これを聞いた長吏は「なるほど人の親の、子を思う道がある。師匠の弟子を思う志はこれだ。なんとお労しく,それほどのお誓いをここで破らせるわけには行きません。当然、御代官も同じ気持ちでしょう」と言った。武蔵坊はあまりの嬉しさに腰を押さえ、空に向かってため息をついていた。
 「大和坊、早く来て御代官に笛をおきかせしろ」
 判官は仏壇の影のほの暗いところから出て,小人の末座に座った。



       義経記    巻第八
  ①継信兄弟御弔ひの事 ②秀衡死去の事  ③秀衡(が)子供判官殿に謀反のl事  ④鈴木三郎

家重高館へ参る事 ⑤衣川合戦の事  ⑥判官殿自害の事  ⑦兼房が最期の事  ⑧秀衡が子供

御追討の事