合戦地、系図、     主要登場人物
 
  ◇源平主要合戦地
  
  源平の戦いは小競り合いを除くと、治承4年(1180年)の富士川の戦いに始まります。この戦いは平家が大軍を率いて、富士川の西に陣取りましたが、まさか夜は攻めてこないだろうと、酒を飲んだり,遊女を引き入れたりの兵までいたようです。深夜、水鳥が飛び立ったのを平家の夜襲と勘違いして、エクソダスとなり「平家は水鳥の羽音に驚いて逃げた」と、後に言われるようになりました。しかし、実情はいささか異なるようですが、それは物語に譲りましょう。

 平家が一気に力を失ったのは、倶利伽羅峠の戦い(巻之七)でしょう。平家の軍勢は十万。七万と三万の二手に分かれ,七万が倶利伽羅峠へ。木曾義仲は五万を七手に分けての戦い。義仲は夜を待って“火牛の奇襲”(源平盛衰記)で、平家七万の軍勢を栗からだ倶利伽羅谷へ追い落とし、木曾の大勝利。平家軍は五万を失い、篠原の戦いを終わって都へ戻ったのは、二万騎に減っていたという。

 この義仲の勢いに驚いた頼朝は、自ら上洛を狙いましたが、途中で断念。義経を送り込みます。義仲を責め、琵琶湖畔で討ち取って頼朝。義経兄弟が覇権を握ります。義仲との戦いで平家は都落ちを余儀なくされ、その後は押される一方でした。

 一の谷の合戦は義経の鵯越の逆落とし、などもあって平家は屋島へと本拠を移します。以後、屋島・志度の戦い、から壇ノ浦合戦で壊滅するまでの戦は、義経の虚を突く戦法、伝統的な戦の“習慣”を無視した戦いに,平家は翻弄され続けました。

 平家の公達は“平家支配の二十年”の間に身につけた優雅さ、教養があり、詩歌のや笛などの名手を生み、武芸にも優れてはいましたが、荒々しい東国武士の“ハングリー精神”と義経の“武士道に反する戦法”などに抗する術もなく敗れ去りました。
(図は林原美術館・平家物語絵巻から)



  ◇平家系図

  平家物語には沢山の人物が登場する。物語に姿を見せる主な人物を系図とともに参照することが欠かせない。 平家の20年余に渡る栄華は、清盛一代で成し遂げたわけではない。

 めざましい隆盛の時代は清盛あってのことだが、殿上人の中に加わり、天皇、上皇と直接接触できるようになるには、忠盛の努力が大きい。寄進した寺や三十三間堂などを作る巨額な資金を調達し、惜しげなく注ぎ込むことが必要だった。

 この資金は清盛の祖父・正盛の時代から日宋貿易で蓄えたものや、検非違使などの役職の中で、密かにため込んだものがあったのだろうと推測される。

 平家の閨閥は忠盛の時代からだが、きよもりが平家の頭領になってからは、それが一気に広まった。藤原家との婚姻ばかりではなく、天皇家との関わりも出てきて、清盛の娘・徳子は高倉帝の中宮から、安徳天皇の母、建礼門院となり、平家は絶頂期を迎えた。

 一方、藤原家にとっても清盛との関係を深めるいいチャンスでもあった。平家の嫡男・重盛を義弟に持つ藤原成親は、平家との姻戚関係を深めていく。まず、娘(超美人)が重盛の長男・維盛に嫁ぎ、さらに嫡男の成経(なりつね)は教盛(清盛の弟)の娘と結婚している。これだけ深い姻戚関係だったが、成親は鹿ヶ谷の平家打倒の謀議を主導し、備中へ流され田の地に処刑された。その子・成経も俊寬とともに鬼界が島へ流されたが、2年後に徳子の安産祈願で恩赦され、京へ戻ることが出来た。
 富がものを言うのは現代に至るまで、皮肉ではあるが普遍の真理でもある。物語を今の世に平家の残滓を追うのが「平家物語を旅する」の目的だが、北は中尊寺、北陸道では安宅の関、倶利伽羅峠。頼朝の登場で富士川、鎌倉、房総半島、京都、福原(神戸)はもとより、屋島、厳島、最後には関門海峡・壇ノ浦に至る広大な地域だ。

 おおよそのところはすでに旅しているが、多くは平家物語を追った旅ではない。写真は撮りっぱなしで、外付けのハードディスクにあきれるほど保管されているが、フィルムの分はスキャナーを使ってデジタル化するのが面倒なので放りっぱなしだ。
 なんとかあるものを探したり、最近旅したものを拾い出している。昔の絵図も彩りに使わせて貰うことにした。




 ◇平氏と天皇関係図
 平家物語を読むに際して、系図は欠かせない。複雑な平氏と天皇ヶの関係は系図なしには理解しにくい。この系図には登場しない時忠は、時子の兄で清盛の相談相手でもあったようです。清盛の長男・重盛は小松殿と呼ばれ、人望もある人物ですが、清盛に先立って死去。平家にとって大きな痛手だったようです。母親が宗盛以下の兄弟と異なります。

 後白河天皇と清盛は時に協調、時に反目する複雑な関係でしたが、高倉天皇に徳子を嫁がせることに成功。安徳天皇を生み、建礼門院となりました。しかし、源平の戦いで壇ノ浦に追い詰められ、時子に抱かれた安徳天皇は八歳にして、壇ノ浦の海に入水して世を去りました。

 清盛の孫、維盛の率いる平家軍が、倶利伽羅峠で判断を誤り、木曽義仲に大敗して平氏は一気に滅亡へと向かいました。義仲のすぐ後に登場するのが頼朝の弟、義経です。頼朝とは異母兄弟ですが、京を支配した義仲を頼朝は義経に討たせ、さらに平氏を追討させますが、梶原景季の讒言によって頼朝に嫌われ、壇ノ浦で平家追討を果たしながら、頼朝に追われることになり、平泉へと移った末に衣川で果てています。

  複雑な系統は南北朝時代とは異なるにしても、この時代の天皇の動向や、世継ぎ問題が、世の中を揺れ動かしたことは否めない。

 鳥羽天皇についで、崇徳天皇引き継いだが、崇徳天皇の子、重仁親王に譲位するために、いったん近衛天皇に座を譲り、上皇となったが近衛天皇の後は、後白河天皇、二条天皇、六条天皇と続き、崇徳上皇は反乱を起こしたとして伊豫に流された。

 また、以仁王も源氏の頼朝に蜂起を促し、目的達成前に世を去ったが、義仲、義経、そして頼朝によって、平家から源氏の世に移る原動力となった。





 ◇物語に登場する主要人物

後白河天皇(ごしらかわ てんのう)〔1127~92〕(絵・左)
 天皇・上皇でありながら政治に深く関与し源頼朝に「日本一の大天狗」と言われた老獪な政治家。1155年に即位。不満を持つ兄・崇徳上皇側と対立し、保元の乱(1156)につながる。1158年に譲位後、上皇、1169年法皇となり34年間にわたり院政を敷いた。

崇徳天皇(すとく てんのう)〔1119~64〕
在位1123~1141年。後白河法皇の後ろ盾だった父の鳥羽法皇と対立し、鳥羽法皇の死後、1156年後白河天皇を襲って失敗(保元の乱)、讃岐(香川)に流されその地で没した。

高倉天皇(たかくら てんのう)〔1161~81〕
清盛の義妹・平滋子を母に持つ後白河天皇の第7皇子。1168年に即位、80年に譲位したが、清盛と後白河法皇との対立に苦しんだ。清盛の娘徳子を中宮に迎え安徳天皇を生む。

安徳天皇(あんとく てんのう)〔1178~85〕
清盛の娘である徳子(建礼門院)を母に持つ高倉天皇の第1皇子。1180年3歳で即位、1185年、壇ノ浦で入水。この時、皇位の証となる三種の神器のうち乳母の時子が身につけて安徳天皇とともに入水し、剣が回収できず海に沈んだといわれる。

以仁王(もちひとおう)〔1151~80〕
後白河天皇の第2皇子。学問に秀でていたが平家の圧力により知行地を奪われるなど不遇な生活を送り、1180年平氏討伐の令旨を発して源頼政らに挙兵させるが敗死。しかし源頼朝・義仲らの挙兵が続き、平家滅亡の契機を作った。

平清盛(たいらの きよもり)〔1118~81〕(絵・右)
平忠盛の嫡男。白河法皇の落胤ともいわれる。1153年家督を継ぎ、保元・平治の乱で王朝国家の軍事部門を一挙に握り、1167年太政大臣。9人の娘を天皇や摂関家に嫁がせたが、徳子が高倉天皇の中宮となり1180年安徳天皇を生んで、天皇の祖父となる。79年後白河法皇を幽閉し、権力を集中した。全国60カ国の内、平家の知行を33カ国とするまで、平家一門を繁栄させた。1180年、以仁王の挙兵の後、西国の要衝・日宋貿易の拠点である福原(神戸)へ遷都したが、6ヶ月で一応京に都を戻した直後、81年熱病で死亡。64歳。

平正盛(たいらの まさもり)〔?~1122〕
清盛の祖父。白河法皇に仕えた平氏中興の祖。

平忠盛(たいらの ただもり)〔1096~1153〕
清盛の父。白河法皇に仕え、日宋貿易で平家繁栄の基礎を作った。

平重盛(たいらの しげもり)〔1138~79〕
清盛の長男。鹿ヶ谷事件の時、後白河法皇を幽閉しようとした清盛をいさめるなど、道理をわきまえた人物で、将来を嘱望されたが、父清盛より早く41歳で病没。重盛の早世は平家にとって大きなマイナスだった。

平資盛(たいらの すけもり)〔1158~84〕
重盛の子。壇ノ浦の戦いで敗れ入水。

平師盛(たいらの もろもり)〔1171?~84〕
重盛の子。一の谷の戦いで討ち死に。

平宗盛(たいらの むねもり)〔1147~85〕
清盛の子。兄重盛の死後、平家の総帥となり家督を継ぐ。壇ノ浦の戦いで生け捕りにされて鎌倉に送られ、京都に送還途中、源義経に斬られた。

平知盛(たいらの とももり)〔1152~85〕
清盛の子。平氏が九州・大宰府に落ちた後、屋島を本拠とした西国での勢力圏を作るのに貢献。壇ノ浦の戦いで入水。

平知章(たいらの ともあきら)〔1169~84〕
知盛の子。生田の森を守備していた父と敗走中、討たれた。

平重衡(たいらの しげひら)〔1157~85〕
清盛の子。1180年に南都の反乱鎮圧のため東大寺や興福寺を焼いた。一の谷の戦いで生け捕りにされ鎌倉に送られ斬首された。

平徳子(たいらの とくこ)〔1155~1213〕
清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇を生む。建礼門院と称した。壇ノ浦の戦いで入水したが助けられ京都・大原寂光院に住んだ。

平経盛(たいらの つねもり)〔1124~85〕
清盛の弟。清盛亡き後の一門の長老。壇ノ浦の戦いで自害。

平経正(たいらの つねまさ)〔?~1184〕
経盛の子。和歌に秀でたが一の谷の戦いで戦死。

平経俊(たいらの つねとし)〔?~1184〕
経盛の子。伊賀守、若狭守を歴任。一の谷の戦いで戦死。

平敦盛(たいらの あつもり)〔1169~84〕
経盛の子。笛の名手。一の谷の戦いで熊谷直実に討たれた。戦い前夜、見事な笛の音を響かせ、源氏の強者も聞き惚れた。

平教盛(たいらの のりもり)〔1128~85〕
清盛の弟。清盛の死後、宗盛の後見になる。壇ノ浦の戦いで入水。

平通盛(たいらの みちもり)〔?~1184〕
教盛の子。一の谷の戦いで戦死。

小宰相局(ございしょうのつぼね)〔?~1184〕
通盛の妻。鳥羽天皇第2皇女・上西門院に仕えた。夫の死を知り船上で入水

平教経(たいらの のりつね)〔1160~85〕
教盛の子。壇ノ浦の戦いで源義経を追いつめるが討ち漏らし入水。

平業盛(たいらの なりもり)〔1168?~84〕
教盛の子。通称蔵人大夫。一の谷の戦いで戦死。

平頼盛(たいらの よりもり)〔1131~86〕
清盛の弟。清盛とは不仲で、平氏西国落ちの時、後白河法皇を頼った。源頼朝に招かれて鎌倉に下り、平家滅亡後、出家。

平忠度(たいらの ただのり)〔1144~84〕
清盛の弟。藤原俊成に師事した歌の名手。薩摩の守。文武両道に秀でた武人と詠われた。都落ちの際、俊成に百首ほどの秀歌を託したが、千載集に「さざなみの滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」の忠度の一句が(読み人知らず)として入る。一の谷の戦いでは、西木戸の総大将だったが、敵を組伏せたところ後から腕を斬られ戦死。神戸市長田区の腕塚・胴塚は、忠度の戦死を悼んだ伝承史跡。

平盛俊(たいらの もりとし)〔?~1184〕
平家郎党の最有力者。一の谷の戦いで戦死。
中山忠親(なかやま ただちか)〔1132~95〕
平徳子や安徳天皇に仕え、後白河院庁の要職を務め平家滅亡後も1185年に内大臣になった。書にすぐれ、日記「山槐記」が現存。

 
藤原(五条)邦綱(ふじわら くにつな)〔1122~81〕
摂関家の藤原忠通・基実父子の家司で、清盛と結び、娘を高倉天皇・安徳天皇などの乳母にした。福原遷都の造営役。

妓王と妓女(ぎおう・ぎじょ)=祇王・左=
「平家物語」の作中人物。妓王は白拍子の名手で、清盛に寵愛され、妹妓女、母ともに屋敷を与えられた。のち仏御前が登場すると追い出され尼となり、その後、清盛の許を去った仏御前と京都・嵯峨で隠棲したという。

松王小児(まつおうこでい)
清盛が経ヶ島を築いた時に、人柱になったという伝説上の人物。

監物頼賢(方)(けんもつ よりかた)〔?~1184〕
平知盛家臣で弓の名手。一の谷の戦いで知盛を守って戦死。

源義朝(みなもとの よしとも)〔1123~60〕
鎌倉を拠点に武士団を組織。保元の乱で清盛とともに後白河天皇側について戦功をたてたが清盛に比べ冷遇され、平治の乱を起こし清盛に大敗。東国に逃げる途中、謀殺された。

源義平(みなもと よしひら)〔1141~60〕
源義朝の子。平治の乱で父に従い、清盛を狙うが失敗して処刑。

源頼政(みなもとの よりまさ)〔1104?~80〕
平治の乱で源義朝から平清盛に寝返る。以仁王に平氏打倒を勧めるが事前に発覚、逃れる途中、宇治で追撃され戦死。

源(木曽)義仲(みなもとの(きそ) よしなか)〔1154~84〕
源義朝の甥で頼朝や義経のいとこ。木曽で成長し以仁王の平氏追討の令旨を受けて挙兵。平氏を破り、京都に入るが新帝問題で後白河法皇と対立し幽閉。源義経・範頼軍に破れ、北国に逃れる途中、近江で戦死。

源頼朝(みなもとの よりとも)〔1147~99〕
源義朝の子。父に従い平治の乱に加わったが、敗北、伊豆に流された。以仁王の平氏追討の令旨を受けて挙兵。鎌倉幕府を樹立し弟源義経や庇護した奥州藤原氏も滅ぼした。

源範頼(みなもとの のりより)〔?~1193〕
源義朝の子。遠江(静岡)で生まれ、兄・頼朝挙兵に従い平氏を滅ぼしたが義経没落後、頼朝から疑われて伊豆修善寺に幽閉され、殺された。

源義経(みなもとの よしつね)〔1159~89〕
源義朝の子。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入れられた。のち奥州藤原氏の庇護を受け、兄・頼朝挙兵に従い源義仲、平氏を滅ぼした。頼朝の許可なく官職についたことで怒りを買い、畿内各地を転々とした後、再び奥州藤原秀衡を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の圧力に屈した泰衡に攻められ自殺した。

梶原景時(かじわら かげとき)〔?~1200〕
挙兵した源頼朝を破ったが、潜んでいることを知りつつ見逃し、勢いを増した頼朝に拾われた。平氏追討の源義経軍に加わったが義経と対立、頼朝に訴えて失脚させた。鎌倉幕府の要職を歴任したが、御家人の支持を失い失脚、京で将軍擁立を画策して失敗、駿河(静岡)で戦死。告げ口、讒訴で頼朝に義経を遠ざけさせ、追放させた。

梶原景季(かじわら かげすえ)〔1162~1200〕
弓の達人として知られ、源義経に従軍。義経の動向を探り、対立の原因を作った。父とともに駿河で討ち死にした

鷲尾義久(経春とも)(わしお よしひさ・つねはる)〔?~1189〕
播磨の三草山の戦いで勝利した源義経が一の谷の戦いに向かう途中の道案内をした。以後義経の郎党となり奥州で義経とともに戦死。

熊谷直実(くまがい なおざね)〔1141~1208〕
源義朝に従い、保元・平治の乱で源義平に従う。頼朝挙兵後、頼朝に従い一の谷の戦いで平敦盛を討つ。92年土地を巡る裁判に負けて出家、蓮生と称した。

那須与一宗高(なすの よいち むねかた)〔生没年不詳〕
下野(栃木)の武士。源義経軍に従い1185年屋島の戦いで、平氏側の船上に揚げた扇の的を射抜いた話が「平家物語」にある。那須温泉神社には与一寄贈の鳥居がある。